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パラオ大統領来日

平成25年2月15日、安倍総理は総理大臣官邸で、パラオ共和国のトミー・レメンゲサウ大統領と会談を行いました。

 安倍総理はあいさつで次のように述べました。

 「パラオにおいて、遺骨帰還事業が関係者の皆様のご協力の下で順調に行われております。改めて感謝申し上げます。引き続きご協力をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
 貴国とは深い歴史的な関係があります。太平洋を挟んだ大切な隣国であります。両国の関係をこれからも発展させていきたいと思います」



・・とのことでした。パラオは下の位置にある、太平洋のミクロネシア地域にある島国です。


かつてパラオを日本が統治していた時代がありました。
第一次世界大戦後のベルサイユ条約で、日本が「ドイツ領南洋諸島」の統治を委任されたことは小5シリーズ下巻で学習しましたが、パラオもその中に含まれていたのです。
日本はパラオにおいて学校、病院、道路などインフラの整備に力を入れました。そのへんが日本人のまじめで立派なところですね。白人のアジア、アフリカ統治は文字通りの「植民地統治」で、現地から利益をむしりとる、というようなものでしたが、日本人は台湾でも朝鮮でも、まず徹底的にインフラの整備を行い、現地の人と一緒になってその土地を発展させようとします。だから台湾もそうですが、パラオも今現在でも大変親日的な国で、友好関係にあるわけです。
かつては日本語教育が行われており、今でもパラオのお年寄りの中には、日本人のように日本語を話せる人もいるそうです。またパラオ語になってしまった日本語というのもあります。問題、仕事、場所、大丈夫、本当に、などなど。面白いですね。

有名な話としては、作家の中島敦(なかじまあつし)が南洋庁の教科書編纂係としてパラオに赴任していますね。名作「山月記」が刊行されたのも、パラオ赴任中とのこと。中島敦というと「漢文の世界」というイメージなのですが、意外な関わりがあるものですね。

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さて、パラオは日本委任統治領だったということで、太平洋戦争(大東亜戦争)の激戦地にもなりました。その際の泣かせる感動的エピソードがあるので、ご紹介します。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。
パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。

日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。

昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきます。

島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。

こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
全員です。
そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
議場に籠って話し合い続けるのです。
そうして、みんなの意思を固める。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。

中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。

中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。

そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。
(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。



何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。


汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。


船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

上記の記事はねずきちさんのブログから転載しています。









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