Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

向田邦子作品に学ぶ「東京大空襲」

向田邦子作品に学ぶ昭和史その2は、1945年3月10日の東京大空襲です。

向田邦子作品に学ぶ「東京大空襲」

三月十日。
 その日、私は昼間、蒲田に住んでいた級友に誘われて潮干狩に行っている。
寝入りばなを警報で起こされた時、私は暗闇の中で、昼間採ってきた蛤(はまぐり)や浅蜊(あさり)を持って逃げ出しそうとして、父にしたたか突きとばされた。
「馬鹿!そんなもの捨ててしまえ」
 台所いっぱいに、蛤と浅蜊が散らばった。
 それが、その夜の修羅場(しゅらば)の皮切りで、おもてへ出たら、もう下町の空が真赤になっていた。我家は目黒の祐天寺のそばだったが、すぐ目と鼻のそば屋が焼夷弾(しょういだん)の直撃で、一瞬にして燃え上がった。
 父は隣組の役員をしていたので逃げるわけにはいかなかったのだろう、母と私には残って家を守れといい、中学一年の弟と八歳の妹には、競馬場あとの空地に逃げるよう指示した。
 駆け出そうとする弟と妹を呼び止めた父は、白麻の夏布団を防火用水に浸し、たっぷりと水を吸わせたものを二人の頭にのせ、叱りつけるようにして追い立てた。この夏掛けは水色で縁を取り秋草を描いた品のいいもので、私は気に入っていたので、「あ、惜しい」と思ったが、さっきの蛤や浅蜊のことがあるので口に出さなかった。
 だが、そのうちに夏布団や浅蜊どころではなくなった。「スタア」や料理の本なんぞとはいっていられなくなってきた。火が迫ってきたのである。
「空襲」
 この日本語は一体誰がつけたのか知らないが、まさに空から襲うのだ。真赤な空に黒いB29。その頃はまだ怪獣ということばはなかったが、繰り返し執拗(しつよう)に襲う飛行機は、巨大な鳥に見えた。
 家の前の通りを、リヤカーを引き荷物を背負い、家族の手を引いた人達が避難して行ったが、次々に上る火の手に、荷を捨ててゆく人もあった。通り過ぎたあとに大八車が一台残っていた。その上におばあさんが一人、チョコンと座って置き去りにされていた。父が近寄った時、その人は黙って涙を流していた。
 炎の中からは、犬の吠え声が聞こえた。
 飼い犬は供出するよういわれていたが、こっそり飼っている家もあった。連れて逃げるわけにもゆかず、繋いだままだったのだろう、犬とは思えない凄まじいケダモノの声は間もなく聞こえなくなった。
 火の勢いにつれてゴオっと凄まじい風が起り、葉書大の火の粉が飛んでくる。空気は熱く乾いて、息をすると、のどや鼻がヒリヒリした。今でいえばサウナに入ったようなものである。
 乾き切った生垣を、火のついたネズミが駆け回るように、火が走る。水を浸した火叩きで叩き回りながら、うちの中も見回らなくてはならない。
「かまわないから土足でのぼれ!」
父が叫んだ。
私は生まれて初めて靴をはいたまま畳の上を歩いた。
「このまま死ぬかも知れないな」
と思いながら。泥足で畳を汚すことを面白がっている気持ちも少しあったような気がする。
 こういう時、女は男より思い切りがいいのだろうか。父が、自分でいっておきながら爪先立ちのような半端な感じで歩いているのに引きかえ、母は、あれはどういうつもりだったのか、一番気に入っていた松葉の模様の大島の上にモンペをはき、いつもの運動靴ではなく父のコードバンの靴をはいて、縦横に走り回り、盛大に畳を汚していた。母も私と同じ気持ちだったのかも知れない。
 三方を火に囲まれ、もはやこれまでという時に、どうしたわけか急に風向きが変り、我が隣組だけが嘘のように焼け残っていた。私は顔中煤(すす)だらけで、まつ毛が焼けて無くなっていた。(中略)

 さて、このあとが大変で、絨毯(じゅうたん)爆撃がいわれていたこともあり、父は、この分でゆくと次は必ずやられる。最後はうまいものを食べて死のうじゃないかと言い出した。
 母は取っておきの白米を釜いっぱい炊き上げた。私は埋めてあったさつまいもを掘り出し、これも取っておきのうどん粉とごま油で、精進揚をこしらえた。格別の闇ルートのない庶民には、これでも魂の飛ぶようなご馳走(ちそう)だった。
 昨夜の名残りで、ドロドロに汚れた畳の上にうすべりを敷き、泥人形のような親子五人が車座になって食べた。あたりには昨夜の余塵(よじん)がくすぶっていた。
 我が家の隣は外科の病院で、かつぎ込まれた負傷者も多く、息を引き取った遺体もあったはずだ。被災した隣近所のことを思えば、昼日中から、天ぷらの匂いなどさせて不謹慎のきわみだが、父は、そうしなくてはいられなかったのだと思う。
 母はひどく笑い上戸(じょうご)になっていたし、日頃は怒りっぽい父が妙にやさしかった。
「もっと食べろ。まだ食べられるだろ」
おなかいっぱい食べてから、親子五人が河岸のマグロのようにならんで昼寝をした。
畳の目には泥がしみ込み、い草が切れてささくれ立っていた。そっと起き出して雑巾(ぞうきん)でふこうとする母を、父は低い声で叱った。
「掃除なんかよせ。お前も寝ろ」
父は泣いているように見えた。
 自分の家を土足で汚し、年端(としは)もゆかぬ子供たちを飢えたまま死なすのが、家長として父として無念だったに違いない。それも一個人ではどう頑張っても頑張りようもないことが口惜しかったに違いない。
 学童疎開で甲府にいる上の妹のことも考えたことだろう。一人だけでも助かってよかったと思ったか、死なばもろとも、なぜ、出したのかと悔やんだのか。
 部屋の隅に、前の日に私がとってきた蛤や浅蜊が、割れて、干からびて転がっていた。
 戦争。
 家族。
 ふたつの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめで滑稽な最後の昼餐が、さつまいもの天ぷらが浮かんでくるのである。
(「ごはん」より一部抜粋)


この作品は↓に収録されています。
父の詫び状 <新装版> (文春文庫)/向田 邦子

¥530
Amazon.co.jp



にほんブログ村 受験ブログ 中学受験へ

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。